天使の輪を指差す天使(天使、イラスト)

小噺『食べたケーキ』

「天使の輪」という時間(とき)を遡る(さかのぼる)道具を持つ天使たちのことを少し知ってもらうために、ひとつ彼らの小噺(こばなし)を紹介しよう。

天使たちの間で、時間遡上じかんそじょうについて、よく語られる教訓に
「食べたケーキ」というのがある。


『食べたケーキ』

ここにケーキがある。

それはフワフワのムースのようなクリームで覆われ、
甘いフルーティな香りを周囲に漂わせている。

甘いもの好きな男がこのケーキを買った。

見ているだけで唾液腺を刺激してくるようなゴージャスなケーキだ。
フルーツケーキのような食べ応えと、ショートケーキのような
フワリとした口当たりを想像するだけで、天にも昂る気分だ。

しかし、男は不覚にもケーキを食べる前に、
地べたに落としてしまう。

嗚呼、なんてことだ。

ケーキは不幸にも泥の水溜りに落下し、
通行人に踏みつけられ、
犬にしょんべんをかけられ、
更に追い討ちをかけるように空からは鳥がフンを垂れ、
踏んだり蹴ったりしょんべんまみれ糞まみれ。

落とした男は落胆した。

しかし、男は思った。
そうだ時間をさかのぼれば良い!

幸いにも天使たちはその道具を持っている。

男はケーキが”落ちる前”に救うべく、
時間遡上じかんそじょうを行った!!

時間遡上じかんそじょうとは、少し前まで時間を遡り、
そこから時空間を分岐させる行為だ。

男はケーキが落ちる前の時間に舞い戻り、
ケーキが地面に落下するのを見事防いだのだった。

さて、この時、彼がいるのは、
先ほどのケーキが落ちた時空間とは異なり、
ケーキが落ちていない時空間だ。

落ちる直前に戻った男によって時空間が分岐され、
ケーキが落ちた時空間と、
ケーキが落ちていない時空間とができたわけだ。

先ほどのケーキが落ちた世界と、
今度のケーキが落ちてない世界が、
二つの時間軸(タイムラン)として存在しており、
これが俗に言うパラレルワールドってやつだ。

パラレルワールドってやつは分岐させても、
元に戻ろうとする。分岐させたポイントから近いほど、
そのエネルギーは大きい。

男は急いでケーキをたいらげた。
甘い甘いフワフワクリームでお腹を満たしご満悦だ。
パラレル化されていた時空間は急速に戻ろうとし、
ケーキが落ちた世界と、ケーキを食べた世界が統合される。

果たしてそこにあるのは。
地べたに落ちて犬のしょんべんをかけられ鳥の糞にまみれたケーキが
腹にすっかり収まっている男の姿であった。

少なくとも男の記憶の中はそうであった。
男が恐る恐る口の中を舌でまさぐると、
ジャリっと砂のような感触と共に、
犬の小便のアンモニア臭と鳥の糞の酸味が口腔内に充満してきた。

もっとも、二つの世界がくっついているので、
ケーキに付着した泥も、犬の小便や鳥の糞も、
まぁ、物理的には半々くらいかもしれないが・・・
半分でも、犬の小便や鳥の糞は嫌なものだろう。
まして、それがグルメな甘党であるのなら。

男は嘔吐した。

激しく嘔吐し口をぬぐった。
ぬぐってもぬぐっても、
臭い匂いが脳裏から離れることはなかった。

のたうち回る男を通行人たちは、怪訝そうにただ眺めていた。

通行人たちは、パラレル化したふたつの空間でも同じ行動をしていたので、
時空間が分岐したことにすら気づかずに生活していた。

強いて言えばこの男を凝視していた者だけには、
落ちたケーキを嘆く男と、いそいでケーキを食べる男が、
ブレて重なって見えていただろう。

周囲の者たちはそのままで、
男だけが分岐した時間での行為と、その結果を享受していた。

分岐した時間が結合し結果がいかようになるか、
男の腹や記憶の中身がどうなっているのかは、
ただの通行人には分かるわけもなく、
この状態、まさに「神のみぞ知る」だった。


時間を遡上し分岐したのが起点なら、統合するのは終点だ。
この小噺は正確ではないが、時間を遡上した際の顛末を示唆するには、十分な教訓を含んでいる。

落ちたケーキを食べたケーキにするには、それ相応の結果を覚悟する必要があるということだ。

天使たちが行う時間遡上は一般的に、同胞の命にかかわる場合や、それに相応する重要且つ可及的速やかに対応が望まれる場合でのみ使用されており、主に守護分隊での対トビヲ戦で活用されている。

タイムマシン食中毒になるのは、天使としては恥である。