その場所は、永遠の微睡(まどろみ)が支配する、天使たちの領土であった。
そこに置かれたのは、一柱の「奇跡」とも呼ぶべきケーキである。
それは、雲の切れ端を掬い取ったかのようなフワフワのムースで幾重にも装飾され、周囲には天上の庭園を思わせる、甘く芳醇な果実の香りが霧のように漂っている。
甘美なものに心奪われる一人の男が、この神域の逸品を手にした。
視線を注ぐだけで、彼の唾液腺は狂おしく疼く。フルーツケーキのような重厚な芳醇さと、ショートケーキのような儚い口当たり。それを想像しただけで、彼の魂は天上の旋律に導かれるように高鳴った。
しかし、運命は残酷な悪戯を好む。
男は、その至福を口にするよりも早く、不覚にもケーキを掌から滑り落としてしまった。
嗚呼、なんてことだ。
ケーキは無残にも、聖域の片隅にある泥濘(ぬかるみ)へと沈み込んだ。
それは瞬く間に、通行人の無慈悲な靴底に踏みにじられ、野良犬の体臭を含んだ尿を浴び、さらに追い打ちをかけるように、空から鳥の糞が毒のように降り注ぐ。
高貴な逸品は、見るも無惨な「汚物」へと成り果てた。
男は絶望の淵で、魂が凍りつくような衝撃を受けた。
だが、その絶望の深淵で、男の脳裏に閃光が走る。
「そうだ、時間を遡ればいい……!」
幸いにも、この世界を司る天使たちは、時間の理(ことわり)を操る術式を心得ている。
男はケーキを救い出すため、禁忌に近い「時間遡上」を強行した。
時間遡上とは、僅かな過去へと因果を退行させ、そこから時空間を分岐させる秘術だ。
男はケーキが墜落する直前の、あの刹那へと舞い戻り、見事な手つきでその落下を阻止した。
しかし、この時、彼が立っているのは「ケーキが落ちた」時空間とは異なる、別の「ケーキが落ちていない」時空間である。
男の介入によって、世界は二つに分かたれた。
ケーキが泥に沈み、汚辱にまみれた世界。
そして、男の手の中で無事に守られたケーキが存在する世界。
この二つの時間軸(タイムライン)は、並列に存在する「パラレルワールド」として固定される。
しかし、パラレルワールドには「元の状態」へ回帰しようとする強力な復元力が働いている。分岐点に近いほど、その収束への圧力は強大となる。
男は焦燥に駆られ、狂ったようにケーキを平らげた。
甘く柔らかなクリームが喉を滑り、彼は至上の悦びに浸る。
だが、並列化した時空間は猛烈な勢いで収束を開始した。
ケーキが落ちた世界と、ケーキを食べた世界。二つの事実は、物理的な法則を無視して強引に「統合」されていく。
果たして、そこに存在するのは――。
泥にまみれ、犬の尿を浴び、鳥の糞を被ったはずのケーキが、男の腹の奥へとすっかり収まっているという、悪夢のような光景であった。
少なくとも、男の記憶の中ではそうであった。
男が恐る恐る、震える舌で口の中をまさぐると、ジャリッとした砂のような異物が歯の間に挟まる感触が伝わった。
同時に、犬の尿の強烈なアンモニア臭と、鳥の糞の鼻を突く酸味が、爆発的な勢いで口腔内に溢れ出した。
二つの世界が物理的に融合したため、ケーキに付着した汚れも、尿も、糞も、あるいはその混合物も、等しく男の体内に取り込まれたのである。
たとえそれが半分であったとしても、グルメな甘党にとってそれは耐え難い冒涜であり、魂を削るような苦痛であった。
男は嘔吐した。
激しく嘔し、胃の内容物を吐き出した。
口を拭い、鼻をすする。
だが、拭っても拭っても、脳の芯までこびりつくような異臭が離れることはなかった。
のたうち回る男を、通行人たちは怪訝そうに眺めるだけだった。
彼らはパラレル化した双子の空間のいずれかに存在していても、同じ行動を繰り返していたため、世界の断層など知る由もない。
強いて言えば、この男を凝視していた者だけは、落ちたケーキを嘆く男と、狂ったようにケーキを食べる男が、幻影のようにブレて重なり合って見えたかもしれない。
周囲の人間は変わらぬ平穏を歩み、男だけが、分岐した時間での行為とその無惨な報いを受け取っている。
統合された結果、男の腹の中や記憶がどう変質したのかは、ただの通行人には知る由もない。
まさに、神のみぞ知ることであった。
※この小説は、天使たちの世界に伝わる小噺『食べたケーキ、落ちたケーキ』(This cake fell, and this cake was eaten.)を元にしている(笑)

